作品うp用ブログ。
油彩・立体がメイン。美術に関するあれこれも書いていく。twitter⇒http://twitter.com/2501kai
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
なんとまあ久々の更新でしょう。仕事が忙しくを言い訳にはできませんが、精神的に参っていたのも手伝って、かなり更新に間が開いてしまいました。せめて月2くらいは更新できるように頑張ります・・。
それはそうと、土曜日にエル・グレコ展と円空展行ってきました。
エル・グレコ展は思ったほど混んでないのでじっくり見られた。色彩の鮮やかさと、あの時代にしてはあまりに現代的な画風。多分様々な画家が影響されたに違いない。ピカソ然り。無原罪の御宿りはやはり見上げる構図がベストに描かれている。見上げると"そこにいる"感がすごい。実際見ると描かれた人でみっちり埋まってるが、見上げるときちんと雲間の先の空(神のいるであろう場所)が見えるように配置され、目線が誘われる。エル・グレコは光も構図も非常に効果的に使う。だからか、絵がとても演劇的だなと感じた。グレコの描いた宗教画の構図使って舞台が組めそうだ。描かれた人物は"動いている人を描いた"という雰囲気があるので尚更。建築物の描写なども巧みではあるが、人物の生き生きした描写と比べると熱の入れ方が違う。肖像画を見ても、よくわかる。グレコの使う荒いタッチがその効果をさらに高めている。だからか、写真のブレみたいに描かれているところが肖像画によく見られた。珍しい。
会場はほぼグレコの作品のみで構成され、作品数もあるので満足感があった。図録は、はっきり言ってひどい。グレコの鮮やかな色彩と劇的な光を写真に収めるのには苦戦したのだろうが、それにしても色が変わりすぎである。本当に酷いものだと絵の表面がフラッシュの光で反射しているように見える。まあでも買いましたけどね?
円空展は本館の一室を使って開催されているのでそれほど広くはない。飛騨の森をイメージした会場のつくりだったが、円空の作る仏の、どこかのどかな雰囲気にはまっていたように思う。それにしても円空の仏像は、背中がばっさりと断ち落とされているのにどうしてこんなにも厚みを感じるのか。無駄なものは何もなく、必要なものだけが残っている。人々の身近に信仰される仏としての親しみと威厳、それから神秘。恐ろしい顔をしているとされる不動明王や仁王像でさえも、どこか親しみを込めた笑みを湛え、にも関わらずそこにはきちんとその神らしい威厳が漂っている。木の中に仏を見つけ、手をいれるのは最小限といった感じだ。鑿の跡も鮮やかで、どこにも無駄が見当たらないのに愛が溢れている。なんだかもう…この仏さん達、夜になったら話でも始めるんじゃなかろうかと思うほどの不思議空間である。両面宿儺は、傑作と言われるに相応しいと言うと陳腐だ。炎風吹き荒ぶ崖の上にゆったりと腰掛け、下界の人間達を不敵な笑みで見下ろしている姿。最小限の彫りで、よく動きや表情、情景など表現できるものだとただただ感嘆。信仰されるに足る、その堂々とした姿をたっぷり拝んできました。会場はそこまで広くないが、飛騨の森の木から生まれた仏像達に囲まれていると何故だかとても落ち着く。長居したくなる展覧会だった。
それはそうと、土曜日にエル・グレコ展と円空展行ってきました。
エル・グレコ展は思ったほど混んでないのでじっくり見られた。色彩の鮮やかさと、あの時代にしてはあまりに現代的な画風。多分様々な画家が影響されたに違いない。ピカソ然り。無原罪の御宿りはやはり見上げる構図がベストに描かれている。見上げると"そこにいる"感がすごい。実際見ると描かれた人でみっちり埋まってるが、見上げるときちんと雲間の先の空(神のいるであろう場所)が見えるように配置され、目線が誘われる。エル・グレコは光も構図も非常に効果的に使う。だからか、絵がとても演劇的だなと感じた。グレコの描いた宗教画の構図使って舞台が組めそうだ。描かれた人物は"動いている人を描いた"という雰囲気があるので尚更。建築物の描写なども巧みではあるが、人物の生き生きした描写と比べると熱の入れ方が違う。肖像画を見ても、よくわかる。グレコの使う荒いタッチがその効果をさらに高めている。だからか、写真のブレみたいに描かれているところが肖像画によく見られた。珍しい。
会場はほぼグレコの作品のみで構成され、作品数もあるので満足感があった。図録は、はっきり言ってひどい。グレコの鮮やかな色彩と劇的な光を写真に収めるのには苦戦したのだろうが、それにしても色が変わりすぎである。本当に酷いものだと絵の表面がフラッシュの光で反射しているように見える。まあでも買いましたけどね?
円空展は本館の一室を使って開催されているのでそれほど広くはない。飛騨の森をイメージした会場のつくりだったが、円空の作る仏の、どこかのどかな雰囲気にはまっていたように思う。それにしても円空の仏像は、背中がばっさりと断ち落とされているのにどうしてこんなにも厚みを感じるのか。無駄なものは何もなく、必要なものだけが残っている。人々の身近に信仰される仏としての親しみと威厳、それから神秘。恐ろしい顔をしているとされる不動明王や仁王像でさえも、どこか親しみを込めた笑みを湛え、にも関わらずそこにはきちんとその神らしい威厳が漂っている。木の中に仏を見つけ、手をいれるのは最小限といった感じだ。鑿の跡も鮮やかで、どこにも無駄が見当たらないのに愛が溢れている。なんだかもう…この仏さん達、夜になったら話でも始めるんじゃなかろうかと思うほどの不思議空間である。両面宿儺は、傑作と言われるに相応しいと言うと陳腐だ。炎風吹き荒ぶ崖の上にゆったりと腰掛け、下界の人間達を不敵な笑みで見下ろしている姿。最小限の彫りで、よく動きや表情、情景など表現できるものだとただただ感嘆。信仰されるに足る、その堂々とした姿をたっぷり拝んできました。会場はそこまで広くないが、飛騨の森の木から生まれた仏像達に囲まれていると何故だかとても落ち着く。長居したくなる展覧会だった。
PR
COMMENT